歴史エッセイ

なぜ国東半島の六郷満山を構成する寺の宗派が天台宗なのか?

六郷満山 両子寺

歴史好きの知人の疑問「どうして国東半島の六郷満山は天台宗なんでしょうね?」

たしかにそうだ、なぜ天台宗なんだろうかと自分も疑問を持つようになった。

こんな時にchatGPTと思って使ってみたけど…

chatGPT

色々違う。

多分はっきりとした情報がまだネットに出ていないのだろうと推測される。

自力で調べてみると、こんな記述が見つかった。

天台宗の創始者である最澄と宇佐神宮の結びつき

六郷満山はとりわけ天台宗との関係が深く、その原点は伝教大師最澄の時代にまでさかのぼります。最澄は、桓武天皇の勅使で遣唐使に選ばれ、803年に難波(大阪)を出発します。ところが、航海途中で暴風雨に遭い、九州で足止めを受けます。その時に宇佐神宮にて渡航安全の祈願をして無事に唐に渡り、天台の教えを持ち帰ることに成功します。そのお礼として中国から持ち帰った仏具や経典を宇佐神宮に納めました。

日本文化を探る | いろり – 人と語らうコミュニティサイトから引用
  
  

「唐への航海途中で暴風雨に遭い、九州で足止めされた最澄は、宇佐神宮で渡航安全の祈願をして無事に唐に渡り…そのお礼として中国から持ち帰った仏具や経典を宇佐神宮に納めました」とある。

ここのくだりは空海と似ている。

弘法大師(空海)は、第16次遣唐使船で入唐の砌、大暴風雨に遭遇されました。この時危難を救わんが為、海の守護神宗像大神をはじめ諸仏菩薩に祈誓を込められたところ、浪間に不動明王が示現されました。右手に持たれる利剣で波を左右に切り払われると、荒れ狂う風波は瞬く間に静まり、無事唐土に着くことが出来たのです。

鎮国寺ホームページから引用
  

空海も唐に渡る際、暴風雨に遭って渡れず、宗像大社に祈願して海を渡ることができたと言い伝えられている。

最澄の話に戻ると、唐から戻った最澄はお礼として宇佐神宮に持ち帰った仏具や経典を納めた。

以後も、宇佐神宮と最澄にはかなり強い結びつきが続いたようだ。

宇佐神宮の弥勒寺と国東半島

718年 六郷満山が仁聞菩薩(※1)という僧によって開かれた。(国東に六郷山28寺と6万9千余りの仏像を造る)

725年 宇佐神宮を今の小倉山に移した際、東側の日足の地に弥勒禅院を建てる。(※2)

737年 弥勒寺を宇佐宮社殿の西に移す。(※2)

738年 弥勒寺金堂・講堂を建てる。(※2)

803年 最澄が唐に渡る際暴風雨に遭う。宇佐神宮で渡航安全の祈願して無事渡る。

(※1)
仁聞菩薩とは歴史的史実がはっきりしていない伝説の僧。「中国朝鮮半島から来た渡来僧」ではないかという説や、「宇佐八幡大菩薩の化身」ともいわれている。
参考:日本文化を探る | いろり – 人と語らうコミュニティサイト

この事業は聖武天皇の大きな援助があったそうだ。また弥勒寺の初代の別当(長官)には虚空蔵寺(※3)の法蓮がなったとも伝えられている。
参考:宇佐神宮ホームページ

虚空蔵寺は法隆寺式伽羅配置をした九州最古の寺院。法隆寺と同じ時期(683年頃)に建てられる。
参考:宇佐神宮ホームページ

宇佐神宮の弥勒寺から山岳修行が始まった

かつて、宇佐神宮の中に弥勒寺というお寺があって、そこの和尚が自然の中で霊力をつけるという山伏のような修行、いわゆる山岳修行を始めたと言われています。修行中は山奥ですから泊まる場所がありません。そこで、岩窟のような場所に寝泊まりしながら、修行をしていたそうです。そして年代を経て、その岩窟に屋根をかけて、お堂を形成していったのがこの国東半島のお寺の起こりと言われております。

日本文化を探る | いろり – 人と語らうコミュニティサイト から引用
  

弥勒寺から山岳修行が始まり、修行のための寝泊まりの場所として岩窟が使われた。

「年代を経て、その岩窟に屋根をかけて、お堂を形成していったのがこの国東半島のお寺の起こり」と言われているという。

両子寺 奥の院

国東半島の中央にある両子寺奥の院。

前半分のお堂は木造で、建物の後ろ部分が岩窟にめり込む形式「懸造り」で建てられている。

両子寺奥の院以外にも文殊仙寺の奥の院、天念寺、千燈寺の奥の院も「懸造り」で六郷満山のお寺の始まりと言われているそうだ。

天念寺は水害で無くなり新しい建物が立っていたような…

六郷満山の寺院は最初から天台宗ではなかった

宇佐神宮の弥勒寺から山岳修行が始まり、その後、最澄と宇佐神宮の結びつきから六郷満山の寺院が天台宗になっていったのか。

弥勒寺の初代別当「法蓮」との関連もあるのか。

このあたり、もっと詳しく知りたい!と思ってもなかなかピンポイントで情報を得ることが難しい。

chatGPTのような情報収集ツールが出てきたし、沢山の情報がネットに出てきたらまた別の情報が得られるのかもしれない。

記事のタイトル「なぜ国東半島の六郷満山を構成する寺の宗派が天台宗なのか?」について答えは出ないが、メモ代わりに残しておきたい。

個人的に気になっていること

宇佐神宮あたりの北東は国東半島(中心の両子寺)。

この位置は鬼門にあたるのでは?ということ。何か意味があるのか。

それと天台宗の総本山である比叡山の鬼門の位置にあるのは日吉大社。

「猿田彦が天台の神猿に変えられた所」 という記事に「本来、猿とは無関係の猿田彦大神が、後に皇城・京都御所の鬼門を守護する天台宗の神猿に変身させられた歴史」と書かれていた。

豊前市の古社、大富神社の公式情報によると豊前の神楽の鬼は「猿田彦大神」という。

猿田彦大神(豊前)=鬼=鬼が仏になった里(国東)?

なんてつながりがあるのかないのか。

「これはこういうことなんですよ」と教えてくれる人がいたら嬉しい。

たとえ「いやいや、そうではなくて」という違う意見であっても。

分からなかったことを知ることができるのはとても楽しいから。

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ぶぜんノート
豊前在住のフォトライターです。豊前市・中津市・宇佐市・豊後高田市及び周辺のおすすめグルメやお土産、スポット、役立ち情報を伝えています。温泉・日本酒・ローカルグルメ・歴史・低山登山が好き。SNSのフォローはお気軽にどうぞ。
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