子供の頃に訪れた真言宗総本山「高野山」。
見たことがないような背が高い木、数多の石仏など、自然と歴史が合わさる景色が衝撃だったからか、大人になってからもそんな場所に惹かれてしまう。



仕事でカメラを使うから練習にと言いながら、色々な史跡に足を運んできたし、気になれば本で調べたりもした。
その本の中で、「これって本当だったらすごいんじゃないかな」と感じる本があった。
この本の最初では、日本の古代についての歴史書である日本書紀や古事記(あわせて「記紀」)について、以下のように書かれていた。
「『記紀』は歴史書とされているが、奈良時代の権力者が自分の一族の都合に合わせ諸説を加えて書かせた書物であり、実は史実そのものではない。しかし重要な記録も多く含まれているため、古代史研究には必要な資料である。そのため、何が真実で何が誤説であるか、見抜く力が必要となる。」
「またその内容の多くは神話として書かれているため、それらがどのような史実をたとえて書いたものであるのかを読み解いていく必要がある。たとえば人名や地名は実在の人物や場所をどのように反映したものであったのか、年代は正しいか、などである。しかし残念ながら、これらの事実関係を正確に知るために、我々に残された歴史的資料はそれほど多くはない。」
「ところが歴史の事件と関係のあった旧家では、現代にいたるまでその事件の詳細を子孫に語り伝えているところがある。とくに出雲の旧家には、日本の歴史についてその豊富な伝承が今も伝えられている。その伝承は、権力者の妨害を受けることなく伝えられてきたため『記紀』などの官吏に書かれた内容とは異なる。」
「しかし、各地域の旧家の伝承を比較すると、同じ内容を伝えているものが多くある。また、『漢書』や『三国志』など周辺諸国の歴史書や、各地の神社などに残る古文書・伝承などとも、矛盾なく一致することが多いのである」
「この本では出雲の旧家の伝承を基にして、出雲王国のはじまりからヤマト政権が成立したころまでの史話をまとめてみた。その際、伝承の真実性を検証するために、『記紀』や『風土記』をはじめ、海外の歴史書や、各地に残る伝承などをひもとくとともに、でき得る範囲で現地に足を運び、現代の我々に伝えられている行事や伝承、史話などと照らし合わせることも試みた。さらに、考古学的資料との比較・検討も行った」
読めば読むほど、「確かにそうだよなぁ」と頷いてしまった。

歴史上、勝者が滅ぼした敗者側について良いように書くわけがないし、後ろめたいことがあったら寧ろ書かないだろう。
地域で離れた旧家の伝承や海外の歴史書と照合して同様のことが書かれているなら、「そっちが正しいのでは」という前提で考えてもよいのじゃないだろうか。
たとえ字が無い頃の時代にあったことでも、伝承や地名、祭礼行事に何かしらの情報が残されていることもあると聞く。
様々な神社の由緒書を見て「何故こんなことが書かれているのか」など違和感と遭遇することもあった。
ただし自分は歴史の専門家ではないからもちろん「これが正しい」と証明はできないと思う。
だけど、この本を前提にして、自分なりの考えを発信することはできる。
前提条件が変われば見えてくることも違うはず。
日本の古代史は謎が多いからこそ、ロマンを感じる人も多いし、自分もそのひとりだ。
長年、この謎解きをどうやって記事にしたらよいのか分からず保留にしてきたけど、少しずつ書いてみたい。