大分県にある国宝の臼杵石仏を見に行ってみようと周辺を調べていたら、「臼杵(うすき)」の地名の由来となった神社があることが分かりました。
その神社は古墳の上に立っていて、珍しい史跡であるというので足を運んでみました。
「臼杵神社」「臼塚古墳」へ

「臼杵神社は臼塚古墳の上に立っている」前情報どおり、神社に近づいていくとこんもりとした小さな丘が見えてきました。

臼杵神社正面の鳥居です。

鳥居の奥、階段上に背が高い木が見えます。
ここで右側を見ると

古墳を守る「石人」です。
赤い塗料が残っています。
石人が守っていたという石室も神社内に残っていました。
石室とは「もろお墓」…写真は撮らないでおきました。


樹齢650年ほどの楠木です。


こじんまりとしているけど、キリッとした表情の狛犬です。
とても綺麗に手入れされた神社でした。
臼杵神社のアクセス・情報
〒875-0082 大分県臼杵市稲田 字林西平131番地
臼杵神社公式ホームページ
https://usukijinnja.jimdofree.com/
臼杵神社とは・由緒

臼杵神社(臼杵大明神)由緒略記
御祭神 大己貴命 少彦名命 菅原神
摂末社 稲荷神社一、臼杵荘名之説
千早振神代の昔、天孫日向の国に天降りまして高千穂に宮柱太しき玉いしき時に臼杵を降し玉ひし地なるにより、臼杵と名付けそめけるとなり、即ちその古跡は臼杵神社なり。
豊後国志云、城北里餘有祠、祭臼杵神、故名臼杵、蓋城西南、是臼杵荘境也
臼杵の神とは、臼塚大明神と称する所、日本国記、万葉記などに豊後国の神社とて少名彦神は花園院文保年中(1317~1318)依託立臼杵とあり、日本鹿子といえるものにものせたり、古事記にヒキリウス・ヒキリキネの事見ゆ。即ち大名持の神の故事也。しかれば神代よりの古蹟なると知るべし。熱田神宮の摂社に臼杵の神という有り、故あることなるべし。一、縁結の神
愛敬守は江戸へ遺?方角上へ差出し、御遺成衛大名方御婚儀始の時、縁結の神、日本七つの御守の内とて貴人方御所望あり、毎年五、六十枚より百枚の間差上げてよし一、桜翁推鉾
臼杵大明神は大社?宮造也、その昔京都勅使下臼杵の事あり、今に京田とて社の東に凡そ五反程の上田あり臼杵?熊崎三島明神の北の木?に三反鉾の田地あり。太田?弾守臼杵に封???時、祟祭りて神田を寄付す。昔の?浜出は諏訪にあり、石の臼杵今も立ちたり。又社の裏には流鏑の馬場あり、今の社地は蓬業築立たるもの?男亀なり。後の天神森に女亀なり。(今の公民館)一、大日本神社角力参詣所
見立角力口?中、豊後臼杵宮と出たり。愛敬の御守この社より?、江戸御邸より??故名高きと思はれる。一、石燈銘
臼杵之利、斯民永頼、若夫有疾救薬為大神布厥徳、民全此生 日月垂照、古今仰明
文政庚辰孟夏
臼城疾?世宮者十有六人足月議建立一、臼杵紀記
看板より
隕石誉年臼杵工、天封名託無?威霊況入花園?、歳々?香二月風
文字が掠れていて、全て写しきれないのが残念ですが、由緒書きの由緒書きの内容を書き写してみました。
臼杵の名前の由来となる部分は
千早振神代の昔、天孫日向の国に天降りまして高千穂に宮柱太しき玉いしき時に臼杵を降し玉ひし地なるにより、臼杵と名付けそめけるとなり、即ちその古跡は臼杵神社なり。
ここのようですが、意味がよく分かりません。
高千穂が宮柱も太かった頃?臼と杵が降りてきた?
やはりよく分からないので、大分県公式観光情報サイトから引用しておきます。
臼杵神社の境内には県内でも特に珍しい石造物があります。その形が、甲冑に身を固めた武人(頭部はなし)に似ているため、石甲とも短甲型石人とも呼ばれ、神社の鳥居をくぐると右側に高さ1.5mほどの石人が二基並んで立っています。この場所は、1500年以上前の古墳時代に築かれた全長87m、後円部径約45m、高さ約6m、前方部幅約45mの臼杵地方最大の前方後円墳です。古墳の規模、副葬品、外耳の特徴から、この辺りを支配していた豪族「海人部(あまべ)族」の墳墓とされています。二基の石人は、ここに葬られたものを守衛する番兵として武人の役割を果たしていたと考えられています。その表面からわずかながらも朱の痕跡が認められ、造られた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。
大分県公式観光情報サイトから引用
この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるとも言い伝えられています。昭和51年6月5日に国の重要文化財に指定されています。
箇条書きにすると
- 臼杵神社の境内には大分県内でも珍しい石造物がある。
- 石造物の形が甲冑に身を固めた武人に似ていることから石甲とも短甲型石人とも呼ばれている。
- 石人が二基並ぶ場所は1500年以上前の古墳時代に築かれた臼杵地方最大の前方後円墳
- 古墳の規模や埋葬品などから、埋葬されていたのはこの地域を支配していた豪族「海人部(あまべ)族」の墓と考えられている。
- 石人は墓を守る番人として作られたのではないか。
- 石人の表面は朱の痕跡があり、造られた当初は鮮やかな朱色であったと考えられる。
- 石人の形を臼と杵(きね)に見立て、臼杵という地名が起こったのではないかと伝えられている。
最後の臼杵の地名の由来ですが、由緒書きと何だか違うような気がするのですが、どうなのでしょう。
御祭神は「大己貴命」「少彦名命」「菅原神」でした。
大己貴命と言えば「大国主」の別名、「少彦名命」は大国主の相棒とされます。そして別名は「事代主」。
臼塚古墳とは

大分県指定史跡
臼塚古墳所在地 臼杵市大字稲田字西平
看板より
築造年代 5世紀前半〜中頃
形状 前方後円墳 全長約八十七メートル
埋葬主体 舟型石棺(二基)直葬
臼塚古墳は、古墳時代において大野川東岸から豊後水道沿岸部にかけての広大な領域を支配していた海部一族(あまべいちぞく)の族長(首長)の墓とみられる前方後円墳です。現在、臼杵神社の社殿が建てられている部分が後円部にあたり、大正四年(一九一五)に、この頂上部から大小二基の舟形石棺(ふながたせっかん)が発見されました。両石棺の内部には男女一体ずつ、合計四体が葬られており、出土した頭骨の外耳道(耳の骨)には、潜水作業を行う人々によくみられる骨腫(骨の突起)があることがわかりました。こうしたことから臼塚古墳に葬られた人たちは海を生活の場とするとともに高い航海技術を持ち、九州の古墳文化に強い影響を与えながら、沿岸地域の豪族たちちも深い関係を築き成長した人々であったようです。
副葬品としては、人骨のほかに「位至三公鏡(いしさんこうきょう)」・「獣帯鏡(じゅうたいきょう)」(ともに臼杵市指定有形文化財)と呼ばれる銅鏡がそれぞれ一枚ずつ、さらに貝輪(腕飾り)や鉄製の鎧(短甲)、鉄鉾、鉄剣などが発見されています。
石棺の形状は山陰・北陸地域の舟形石棺と同系統のものです。また、ここに置かれている二基の石人は短甲を模したものであり、九州内では最も古いとされています。
臼杵市教育委員会
海部一族の支配していたエリアが詳しく書かれていました。
古墳時代において大野川東岸から豊後水道沿岸部の広大な領域を支配とあります。
埋葬されていた男女、合計4名の骨の形から、潜水作業をよく行う人たちであることが分かっているようです。